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小林の心の底に息づいている並々ならないほど深い土地への愛情は、こうした原風景により育まれてきたのだということが、痛いほどに伝わってくる。農地改革で土地を失う小林が3歳のときに太平洋戦争が終わった。戦争末期には本土を襲撃され、沖縄侵攻、広

島·長崎への原爆投下と、世界史上でも稀な悲惨な体験を経て、日本にようやく平和な日々が戻ってきたが、ほとんどの国民は、やっと戻ってきた平和を味わう余裕はなかった。戦後もしばらくは食べものが手に入らず、飢えとも戦わなければならなかった。
しかし、広大な農地を持つ小林の家は、幸運なことに飢えとは無縁だった。
それどころか毎日のように都会から、米や芋に換えてほしい着物や骨董品などを持ってという人々がやってきた。「土地があれば、そうした様子を見聞きして育った小林は、幼心にもそこでなにかを生み出せる。それゆえ、土地は無限に近い価値を持つものだ」という思いを、心の奥底に深く刻み込んでいった。だが、ついに激震が襲いかかってきた。
その農村にも、農地改革である戦前までの日本の農村では、大地主がいて、一般の農家は大地主から田畑の土地を借り受けて米や野菜をつくっていた。
無借金の土地活用!!そして、収穫時には賃料の代わりに穫れた農作物の一部を地主に渡し、残った農作物を売って生計を立てていた。戦前の日本の農村は、そんなしくみで成り立っていた。しかし、GHQ連合国軍最高司令部の目には、地主は労せずして豊かな暮らしを手に入れる!方で、小作人は汗水たらして働いても貧しさにあえいでいると映ったのだろう。そこでGHQは、農地改革に乗り出した。
不在地主や広大な農地を所有する地主から農地を買収し、小作人に売り渡すという、お達しを出したのである。しかし、折しも急激なインフレであったため、地主に支払われたお金の価値は大きく下落しただ実質的には只同然で取りあげられたようなものだった。親父は悔しかったでしょうね。
その後もしばらくは、むかしはこうだったんだよと、ことあるごとに話していましたと語る小林は、その悔しさは子どもの胸にも痛いほど伝わってきたと言う。
建築の道を志す小林家は、長男、次男、長女、小林、次女の三男二女という、5人の子宝に恵まれていたしかし、三男の小林には、家の跡を継ぐという選択肢はなく、いずれは自立しなければならなかったため、なんらかのかたちで一生の生活を支えていく仕事を探さなければいけないという思いを、早くから持っていた。

先妻の子供と後妻の子供

そして中学2年生になったときに、ついに自分が進むべき道を心に決めたこのころの日本経済は高度成長期へと突入し、家電製品や自動車など、日本の製造技術に世界の目が注がれていた「なかでも自動車産業は、アメリカなど海外にもどんどん進出しており、将来、最も有望な産業だと思えました」だが、残念ながら小林は、機械いじりがあまり好きではなかった。
もちろん、好き嫌いよりも将来性を重視して機械技術の道に進むこともできただろうが、それではやはり、どこかしっくりこない。

あくまでも自分の本心に従って、自分が本当にやりたいことを生涯の職業にしていきたい自分自身の本当の気持ちと真っ向から向きあった結果、小林が選んだのが、建築の道だったの「結果論ですが、将来は建築家になるという選択を10代でした自分を褒めてやりたいと、いまでもそう思うことがあるくらいです」

そう言って、小林は笑顔を見せるまだ10代なかばの、少年と言ったほうがいい年齢である。

土地評を提出している場合このときの小林は、その年齢で自分が本当にしたいことを感知できたのは、いつも自分をまっすぐ見つめる視線を養ってきたからこそだろう。生涯働き続けるために機械技術ではなく、建築の道に進もう。小林がそう決意した背景には、もうひとつ理由がぁる。まだ10代の若者なのに?と、これもまた驚くほかはないのだが、小林は、何歳になっても一生働き続けたいと思っていたというのである年をとっても、夜遅くまで楽しそうに働いていた。
小林の祖父母や両親は、その姿を見るにつけ、人間は、働き続けるのが理想だと小林は感じた。しかし、会社員には定年がぁ生涯るから、いずれは独立して、自分が経営者にならなければだめだ。
生涯働き続けるためには、その点、建築ならば、いずれは自分で設計事務所を開き、生涯働き続けることができるだろうと考えた小林は、高校を卒業後、大阪工業大学へ進学した「自分で建築を選んだとはいえ、大学での勉強はとても大変でした。
とにかく課題、課題課題の連続で、毎日のようにレポートを提出しなければ単位が取れないのです」いまでも単位が取れずに悩む夢を見ることがあと小林は、大学での生活を振り返って語る。るくらい、小林の学生生活は単位取得との闘いだったと言っても過言ではないそうだ。

玉石混淆

小林が大学で勉強漬けの毎日を送っていたころの日本は、いわゆる高度経済成長の真っただ日本経済は一貫して上昇カーブを描き続けていた。中にあり、1960年に誕生した池田勇人所得倍増計画を打ち出し、国民の所得を10年で2倍にすると約束した。内閣はこれを受けて、景気拡大期にあった日本はさらに勢いづき、1964年の東京オリンピック開催が決定す日本中がさらに沸き立った。
東京オリンピックに向けての建築ブームに加え、ると、オリンピックを契機に明日の日本をつくっていくという熱気が、日本中に渦巻いたのである小林が大学生活を送っていたのは、そんな時代だった。建築は日本の将来像を具体化する仕事だ東海道新幹線が開業したのは、小林が大学を卒業した1964年の、10月1日のことである。
この日の午前6時、国鉄関係者らに見守られながら、東京駅に新設された19番ホームからひかり1号が新大阪駅に向かって走りだした。
東海道新幹線は、·大阪間を3時間10分開業から1年間は4時間で結んだ。それ以前は特急東京こだまで6時間30分かかっていた所要時間が半減されたのだから、の実現とまさに言ってよいだろう。
こうした交通インフラの大きな進化を受けて、日本全国で建築ラッシュが始まった。それは小林にとって、大きな希望をもたらすものだった。建築を選んで本当によかったと、日々、実感していました。
ビルができると、新しいビルは、日本の将来像を具体化するものでもあります。そこを起点に新しいビジネスがスタートします。
人も、モノも、ビジネスも、ビルや不動産を舞台に活気づいていくということが実感できました当時を懐かしんでいるのだろう、こう語る小林の目には、若いころを彷彿とさせる力強い光がこもっていた

超高層ビル時代の幕開け東海道新幹線が開通するおよそ半年前の1964年3月に大学を卒業した小林は、電車で大阪から東京へと向かっていた。

約9カ月にわたり車窓から見える景色はこの2S3年で大きく様変わりしており、建築中であることを示すクレーンが高々と何本途中で通過する名古屋や浜松などの都市にも、も立っていた「間違いなく、これからの日本には建築ラッシュが起きる」そんな確信に胸躍らせながら東京駅に降り立ち、小林は社会人としての第一歩を踏み出した。その年の10月10日に、第18回オリンピック競技大会の開会式が東京·青山の国立競技場で行われた。93の国·地域から集まった5151名の選手が聖火のもとに集まり、抜けるような青ブルーインパルスが5色の軌跡で五輪マークを鮮やかに描いた。
空には航空自衛隊のこの『東京オリンピック』光景をカメラに収めた東京オリンピックの公式記録映画の総監督を務めた市川昆は、「東京五輪は新しい日本の出発でもあった」と述べている。
東京オリンピックは、東京や大阪などを国際都市へと変貌させ、実際、その後の日本の経済発展の助走となったのである同時に建築業界にも大きな時代のうねりが押し寄せてこようとしていた1968年4月には、東京·霞が関に日本初の超高層ビル霞が関ビルが竣工した。
当時地震多発国の日本ではニューヨークの摩天楼のような街並みの実現は困難だとされており、当時の耐震設計法でも、市街地の建物の高さは100尺31メートルまでに制限されていた。
その霞が関ビルが完成された裏には、制限の壁を破って高さ147メートルの建築業界における価値観のコペルニクス的転回があった。