永山ハウス(仮称)

建てないほうが得かも?

東京の西側の、小林は、日野市は、いわゆる多摩地区に位置する。Mの第一歩は、この多摩地区を中心にマンションや戸建住宅を建設し、販売することから始まった。不動産バブルが崩壊する先に述べたように、日本の景気は後退局面に移行しつつあったが、までには多少の時差があり、その当時はまだ、マンションは、立地さえよければ即日完売する状況だった。
つくれば売れる時代だったから、資金力のある大手デベロッパーは、販売は販売専門の会社に任せ、自分たちは次々と土地を取得してマンションを建てていった。しかし、それでも開発がまにあわず、中小のデベロッパーがつくったマンションを大手が丸ごと一棟買い取って、そこに自社ブランドを冠し、自社物件として販売することもあたりまえの時代だった。
創業してまもないMも、この当時の業界構造を積極的に利用し、まずはマンションの建設からスタートをきった。用地の仕込みはもちろん、設計もある程度は私ができます。
ですから、私がだいたいの設計プランをつくり、細部は設計事務所と詰めていきました。
団体顧客の死亡などにも生命保険建設計画が固そして、ある程度、まったところで値付けをし、『これでいける!』と思った段階で正式にゴーサインを出す、そんなかたちでしたねと、小林は語る。·ケーがつくるマンションは、完成する前から飛ぶように売れていった。まさに絶好調エムであるから、普通に考えれば、どんどんつくって、どんどん売っていきたいところだった。しかし、当時はまだ土地が激しく値上がりしている時期であり、創業まもないMは資金的な余裕がなく、次々と土地を仕入れて開発をというわけにはいかなかった。
そのため他社が手を出したがらないような仕事も扱うようになっていったのだが、このときの経験で得たノウハウが、のちにMが市街化調整区域の開発では他社の追随を許さないオン

リーワンの存在になるうえでの最大の武器になっていくのだ。それについての詳細は、次項で述べよう。
創業当初に手掛けたマンション開発のノウハウは、のちに自社ブランドマイコートシリーズとして結実した。
マイコート浜田山第7期のを皮切りに、マイコート北第8期の野、マイコート用賀第9期のマイコート稲城と相次いで販売し、マイコートシリーズはMの経営を支える事業の大きな柱となった。

お金をかけずに地域に貢献したい

マイコートちなみに、MYKOURTとは、Mがつくった造語で、頭文字のMKが、Mが販売する住まいであることを表している。

さらにMは、戸建分譲住宅の開発にも着手し、建築条件付宅地分譲マイコートガーデンシリーズを開発した。建築条件付宅地分譲とは、簡単に言えば、Mに建物の建築を依頼することを前提として宅地の売買取引を行うというものだ。

第20期に第1弾としてマイコートガーデン多摩平を発売し、以降、日野市、府中市、国分寺市でマイコートガーデンシリーズを開発した。

さまざまな土地に精通しているMが選び抜いて開発した宅地だけあって、いずれも高い利便性と快適な住環境を備えていると、まちづくりは顧客から高く評価Mのされている困難な仕事だからこそ挑戦するマンションの建設および一棟売りという事業のほかに、Mでは創業初年から倉庫や配送センターなどの建設も手掛けていた。

私の独立を聞いて、以前からの知りあいだった設計事務所が持ち込んできた案件がきっかけでしたと、小林は当時のことを語る。その設計事務所が持ち込んできた所沢の土地は、事前の地権者との交渉で大きな困難が予想される、やっかいな案件だった。市街化調整区域である5000坪の土地に、所沢市の丘陵地を切り開いたときに出た残土が大きな山をつくっていた。
しかも、そのあたりには産業廃棄物などが山積みされた状態で、雨が降ると崩落の危険があり、所沢市としても対処に困り果てていた。
立地はよいため、使える状態になるならば進出に名乗りをあげる企業もありそうなのだが、実際に事業化するのは困誰も手を出そうとしない、難このうえなく、そんな土地だったのだ話を持ち込んできた設計事務所の知人は、このあたりに顔が広い小林ならば、なんとかできるのではないかと考えたようだ。
団体顧客の死亡などにも生命保険その期待に背かず、小林は幾度かの交渉の末、そこで産業廃棄物の処理をしていた業者に話をつけ、まず、残土と産業廃棄物をかたづけた次に、その場所に配送センターをつくる許認可を自治体から取りつけ、配送センターをつく知人の会社を介して大手百貨店にその土地を販売し、る下準備をすべて整えたうえで、Mが建物の建設を請け負った。
所沢物流センターが完成したのが、こうして大手百貨店の1992年のことである繰り返しになるが、当時はまだ、マンションを建てさえすれば端から羽がはえたように売れ、楽に儲けを手にできる、そんな時代だった。なのになぜ、こんな難しい案件を手掛けたのだろうか。

この素朴な疑問を小林にぶつけたところ、「マンション用地などは、まだまだ値上がりを続けていた時代で、それを仕入れるだけの十分な資金がなかったということもありますが、ほかの人がやらないようなこともどそれ以上に、んどんやっていかないと、会社も自分も器が大きくならないと思っていたからです」という答えが返ってきた。

さまざまな許認可業務に対する行政の理解が得られること。

「俺はこれしかやらない、これしかできないと決めつけて、それまでやってきたことからはみ出すようなことはやらない人は、いつまで経っても、それまでの自分の枠の中のことしかできビジネスチャンスを逃してしまうし、自分の器も大きくならないし、ません。それでは、会社も発展しません」小林の言うとおりだ産業廃棄物が山積みされ、市からも厄介者扱いされていた土地を、実際、大手百貨店の物流センターとしてみごとに生き返らせた経験は、30年の歳月を経て、現在のMにとって市街化調整区域の再開発というビジネスにつながり、最大の経営基盤である大きな花を咲かせているのである

農耕型という新しい不動産ビジネスの開発へデベロッパー各社が開発競争にしのぎを削っていた。
当時の不動産市場では、ひたすら土地を造成し、そこに戸建住宅やマンションを建て、先を争うように売って、利益を得る、その繰り返しだった。
それでもバブル経済が崩壊する前までは、住宅を買いたいという人が多く、住宅価格も上がり続けていたから、住宅業界は労なくして拡大し続けることができた。バブル崩壊後の不況により、だが、様相は徐々に変わっていった。
聞いていなかった「バブル崩壊後は、『よい時代』住宅業界にとってのはなくなりましたね」小林の口調もややトーンダウンする。と、かつては都市近郊で農業に従事していた人たちのなかにも、土地を手放し、一時的に大金を手にした人もあったが一概して身につかないものだ。そうしたお金は派手に使ってしまったあげく、気がつくとお金も土地もなくなってしまったという人がゴロゴロしていたのが、バブル崩壊後の実状だった。
小林がなによりも耐えがたかったのは、土地が消費財のように扱われていることだっ当時、この先もずっと「開発しては売りの繰り返しで、いつも手元にはなにもない」というビジネスを続けていかなければならないのか。もっと有意義で、それよりも、土地オーナーも不動産会社も安定的に収益を確保できるような土地の利用法はないだろうかそんなことを考えているときに、幼いころに何度も聞いた母の口癖が、耳の奥に甦ってきた。

「農家は、売らずにきちんとやっていれば、土地をちゃんとやっていけるんだよ」その言葉から、土地を所有し、それを売ってお金にするのではなく、土地を活かして使い、そこからお金を得ることはできないかと考えるようになった。
こうして、土地は、所有から活用へという新たな方向性が見えてきたのである確かな収益基盤、それも継続的な収益基盤をつくろうここで話が多少前後することを、お許しいただきたい。