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建物を父から子供に贈与する

永山ハウス(仮称)

結婚することになるのだが、その女性の父親ちょうど同じころ、小林はある女性と出会い、ことあるごとに三澤から、がミサワホームの創業者である三澤二郎であった。そのため、住宅小林が住宅事業に関心を持っきっか事業のおもしろさや魅力を耳にする機会があったことも、けになったのかもしれない。いくつものカルチャーショックから学びを得る多摩中央ミサワホームに入社した小林は、やがて、建設部の部長と歴任して設計部の部長、ゼネコンと住宅メーカーでは、いった。
ところが、設計建設と同じでも、使う言葉はそれぞれに求められる仕事の内容に大きな違いがあった。設計部でまず小林が直面したのは、建築士なしで家が建つという事実住宅メーカーではかつてないほどの大きなカルチャーショックだった。だった。
これは、小林にとっては、プロジェまず建築士が設計図を描かなければ、ゼネコンでは、はじめに設計ありきである。

クトはスタートできない。
ところが住宅メーカーでは、建築士の技術なしでも建物が建てられるのだ特に当時のミサワホームでは、壁材、屋根、キッチンやバスなど、建物の各部材ごとに専門セクションがあり、それらの部材を組み合わせ、組み立てて、建物をつくるという工法を売りそこで求められるのは緻密な設計図ではなく、それぞれの部材をいかに効率的かにしていた。

つ効果的に組み合わせていくかという、設計図というよりは、完成イメージと組み立てのための工程図に近いものだった。ゼネコンの設計士は、細部に至るまで1ミリの狂いもない緻密な図面を引いていく。一方設計士住宅メーカーの設計士は、緻密さよりもイメージの豊富さを求められる。

同じでありながら、ある意味では天と地ほども違うと言ってもいいかもしれないその仕事内容は、建設部の仕事もまったく異なった。住宅メーカーにおける建設部の仕事には、施工にあたる工務店との折衝や工程管理なども含まれる。なかでも小林にとっての最大のカルチャーショックは、建設部が建設代金の回収まで行うことだった。ゼネコンでは、代金の回収はあくまでも建築士がそんなことを行うなど、営業の仕事であり、考えられないだが、よくよく考えれば、ゼネコンであれ住宅メーカーであれ、建設工事が終われば、それで仕事も終わりというわけではない。
工事が完成し、初めてひとつの仕事が代金を回収して、完成するのだ。仕事とは、「お金が流れ、ことでできている。それが実感として理解できるように循環する」建設部部長としてお金の問題と直に向きあったからだった。なったのは、一緒に銀行に行ってローンの契約のお手伝いをしたこともあれば、それまでお住まいだった家を売るお手伝いをしたこともあります。
正直なところ、お金を回収するということは、並大抵のことではありません。
これだけの努力をしなければ、お金は払ってもらえないのだということを、骨身に沁みて知りましたと、小林は当時を述懐する。技術畑一筋でやってきた小林には、代金の回収というのは大きな試練だったのかもしれない。

zozoマリンスタジアムの駐車場さらに小林は、部長でもあったから、お金の流れを把握し、間違っても資金が建設部のショートすることなどないように、全体の代金回収にも目配りをしなければならなかった。「小川建設時代は、会社の運転資金はもちろん、建築代金にも関心はゼロでした。要は、お金に触ったことなどなかったのです」と、小林は当時の苦労を想起しながら語る。だが、こうしてお金と関わり、苦労を重ねた経験は、のちに小林が経営者となったときに、おおいに活かされることになった。「仕事とはどういうことか、そして会社経営とはどういうことか。
お金の流れを理解できていなければ、それらを真に理解することも、できなかったと思います」自らの力にすることもあのまま小川建設にいれば、そこそこ出世はできただろう。そのくらいの自信はある。だがしょせん、組織の歯車のひとつで終わる人生であったに違いないと、小林は語る会社を大きく成長させていき、のちに独立した小林は、いまでは不動産価値の革命を起こしたと言われるほどの成功を成し遂げた。
それを実現させた経営力の根源は、多摩中央ミサワホーム時代のさまざまな経験にあったことは、まごうことない事実だろう。
芽生え始めた独立志向やがて小林は開発事業部長となり、設計や建設とは次元を異にする開発事業に関わっていっ

多摩地区は高度成長期の住宅需要の受け皿として人気地区となり、急激な開発と人口増加がしかし、1970年代なかばごろから日本経済は高度成長期から低成長期へと移続いていた。多摩地区の人口増加も多少ゆるやかなカーブを描くようになっていた。

広大な空間と豊かな自然がある多摩地区は、環境もよく、住宅地としての人気は依然として高かったが、それに加えて、ハイテク企業や研究機関などが集積するようになり、さらには建物や人口の過密化により都市部での学部·学科の増設や定員増などが難しくなった大学の移転先としても、注目を浴びるようになっていた多摩中央ミサワホームは、こうした施設で働く人々に、新たに開発した周辺の分譲地にミサワホームの住宅を建てて販売すると同時に、多摩中央ミサワホーム独自のマンションや新たなホームタウンを開発する事業なども、精力的に進めていた。
多忙に追われて毎日が飛ぶように流れていったが、ふと気がつくと、小林が多摩中央ミサワホームに入社してから、はや1年が経過していた。年齢も40代なかばとなり、「若これまでのではなく、さに任せて突っ走る仕事」社会と深く関わり、やりがいや生きがいとなる仕事をやっていきたいと考えることも増えてきた。小川建設での10年と、多摩中央ミサワホームでの10年。

同じ建設業界ではあるが、フェイズの異なる仕事をそれぞれほぼ10年ずつ経験してきた小林は、そろそろ次のステップに歩を進めるときではないかと考えるようになっていた。特別になにかのきっかけがあったわけではない。ミサワホームに不満があったわけでまた、夕暮れどきに、ふと遠くに視線を投げると、もない。

コミュニティ

被相続人が相続に備えてやっておくこと

建てないほうが得かも?
ただ、多摩丘陵の稜線が、そのまま故郷の光景へとつながっていくように感じられた。安曇野から見える山々は北アルプスの険しい稜線だが、多摩丘陵の稜線はあくまでもやさしい。しかし、朝に夕にと仰いでいるうちに、小林の視界の中で多摩丘陵の稜線と北アルプスの稜線が重なりあい、小林だけの心やすらぐふるさとの光景に見えてきた。いつかは自分自身の力で勝負する、故郷ですごした少年時代の小林は、「社会に貢そして生き方を、めざしていたのではなかったか。
献する」その当時の自分が、40代になった自分に囁きかけてきた。「そろそろ勝負をする時機ではないのか」と。こうした自問自答を何度となく繰り返した末、ついに小林は独立を決意し、1988年11月·ケー株式会社を設立した。にエム社名のエムはミサワホームのM、Kかケーは小林のらとったものだ。このとき、小林は46歳。
若さと熟練と豊かな経験をほどよいバランスで備えた、独立には最適な年齢だったと言えるだろう。
独立に際して小林は、義父である三澤二郎に直接、退社の意思を伝えた。三澤は、小林の持つ経営者としての並々ならぬ才能を、早くから見抜いていたのだろう。それまでも折にふれ、経営者としての心構えや、経営にはなにが大事かといったことを、小林に繰り返し語っていたという。それだけに小林としても、三澤と正面から向きあって自分の正直な気持ちを伝えたかったのかもしれない。

はらその小林の思いに応えるように、「一国一城の主になる以上、三澤は肚をくくってがんばってほしい」と、独立する小林に言葉をかけてくれたという。さらに、「われわれがやっている不動産事業は、国の方針に大きく左右されるビジネスです。
だから事業経営には、世の中の潮流をよく見極めると同時に、国の政策や指針の動きをたえず見守って、なにがしかの変化を感じ取ったらいち早く次の一手を打っ、その感度と行動力が大事なのです」と、経営者としてのアドバイスまでくれたという。

このとき三澤からもらった言葉は、その後、小林にとっての経営の指針となった。
実際、い自身の行動や言動を見つめなおすことがあるといまでもときどき三澤の言葉を噛みしめつつ、う。

農耕型不動産ビジネスとヘッドリース事業

-所有から活用へ。
不動産の新しい価値を見出す!

M株式会社の船出しょうしゃ地上5階建ての瀟洒なビル。JR中央線日野駅前の大通りを3,4分進んだところに建つ、これがMの本社である。
社宅·寮、宅地や工業·産業用地、マンション、戸建住宅、オフィスビル、Mは、倉庫·物流センター·介護付有料老人ホームなどのブランニングから開発、建設、販売、仲介多様な業務をこなしている。

管理業務までを横断的にカバーする総合不動産会社として、日々、

だが、いまからおよそ30年前の、創業当時のMは、机を2S3個置いたらもういっばいになるほどの狭いオフィスに、社員は電話応対や事務をこなす2人の女子社員だけというこばやしつよし小さな会社にすぎなかった。小林勁の経営者としての第一歩はふら始まったのである小林がエムまさにバブル経済のピークにさしかかった時·ケーを創業した1988年末は、期にあたる。
翌1989年末の大納会で日経平均株価が3万8957円の史上最高値をつけたのを頂点に、景気は徐々に後退局面へと入っていく。以後、一方、不動産価格も高騰していた。地価の上昇は、東京から大阪、名古屋といった主要都市さらには全国へと拡大した。
市街地価格指数でみると、日本不動産研究所のピークを迎えた1990年9月の地価は1985年9月と比べて約4倍の水準にまで上昇している。当時の日本の土地の総額は約2000兆円にのぼり、東京の山手線内の土地価格でアメリカ全土の土地が買えると言われたのもしかし、この時期である。地価はその後、下落に転じる。

いま振り返ってみれば、こうした転換点がはっきりと見えてくるが、当時は誰もが、この好景気が永遠に続くものと錯覚し、地価や株価が少しくらい下がったとしても、いずれ回復すると思い込んでいたバブル経済がいよいよピークを迎え、小林が独立し、·ケーを創業したのは、エムまもなく日本経済が底なし沼のような長く暗い低迷期に入ろうとする、そんな時期だったのであるマンションの一棟売りからスタートM創業の地として、東京都日野市を選んだ。
税務署側東京の西側の、小林は、日野市は、いわゆる多摩地区に位置する。Mの第一歩は、この多摩地区を中心にマンションや戸建住宅を建設し、販売することから始まった。不動産バブルが崩壊する先に述べたように、日本の景気は後退局面に移行しつつあったが、までには多少の時差があり、その当時はまだ、マンションは、立地さえよければ即日完売する状況だった。
つくれば売れる時代だったから、資金力のある大手デベロッパーは、販売は販売専門の会社に任せ、自分たちは次々と土地を取得してマンションを建てていった。しかし、それでも開発がまにあわず、中小のデベロッパーがつくったマンションを大手が丸ごと一棟買い取って、そこに自社ブランドを冠し、自社物件として販売することもあたりまえの時代だった。
創業してまもないMも、この当時の業界構造を積極的に利用し、まずはマンションの建設からスタートをきった。用地の仕込みはもちろん、設計もある程度は私ができます。
ですから、私がだいたいの設計プランをつくり、細部は設計事務所と詰めていきました。

建設計画が固そして、ある程度、まったところで値付けをし、『これでいける!』と思った段階で正式にゴーサインを出す、そんなかたちでしたねと、小林は語る。·ケーがつくるマンションは、完成する前から飛ぶように売れていった。まさに絶好調エムであるから、普通に考えれば、どんどんつくって、どんどん売っていきたいところだった。しかし、当時はまだ土地が激しく値上がりしている時期であり、創業まもないMは資金的な余裕がなく、次々と土地を仕入れて開発をというわけにはいかなかった。
そのため他社が手を出したがらないような仕事も扱うようになっていったのだが、このときの経験で得たノウハウが、のちにMが市街化調整区域の開発では他社の追随を許さないオン

リーワンの存在になるうえでの最大の武器になっていくのだ。それについての詳細は、次項で述べよう。
創業当初に手掛けたマンション開発のノウハウは、のちに自社ブランドマイコートシリーズとして結実した。
マイコート浜田山第7期のを皮切りに、マイコート北第8期の野、マイコート用賀第9期のマイコート稲城と相次いで販売し、マイコートシリーズはMの経営を支える事業の大きな柱となった。

そんなこともやってくれるのか

お金をかけずに地域に貢献したい

マイコートちなみに、MYKOURTとは、Mがつくった造語で、頭文字のMKが、Mが販売する住まいであることを表している。

さらにMは、戸建分譲住宅の開発にも着手し、建築条件付宅地分譲マイコートガーデンシリーズを開発した。建築条件付宅地分譲とは、簡単に言えば、Mに建物の建築を依頼することを前提として宅地の売買取引を行うというものだ。

第20期に第1弾としてマイコートガーデン多摩平を発売し、以降、日野市、府中市、国分寺市でマイコートガーデンシリーズを開発した。

さまざまな土地に精通しているMが選び抜いて開発した宅地だけあって、いずれも高い利便性と快適な住環境を備えていると、まちづくりは顧客から高く評価Mのされている困難な仕事だからこそ挑戦するマンションの建設および一棟売りという事業のほかに、Mでは創業初年から倉庫や配送センターなどの建設も手掛けていた。

私の独立を聞いて、以前からの知りあいだった設計事務所が持ち込んできた案件がきっかけでしたと、小林は当時のことを語る。その設計事務所が持ち込んできた所沢の土地は、事前の地権者との交渉で大きな困難が予想される、やっかいな案件だった。市街化調整区域である5000坪の土地に、所沢市の丘陵地を切り開いたときに出た残土が大きな山をつくっていた。
しかも、そのあたりには産業廃棄物などが山積みされた状態で、雨が降ると崩落の危険があり、所沢市としても対処に困り果てていた。
立地はよいため、使える状態になるならば進出に名乗りをあげる企業もありそうなのだが、実際に事業化するのは困誰も手を出そうとしない、難このうえなく、そんな土地だったのだ話を持ち込んできた設計事務所の知人は、このあたりに顔が広い小林ならば、なんとかできるのではないかと考えたようだ。

その期待に背かず、小林は幾度かの交渉の末、そこで産業廃棄物の処理をしていた業者に話をつけ、まず、残土と産業廃棄物をかたづけた次に、その場所に配送センターをつくる許認可を自治体から取りつけ、配送センターをつく知人の会社を介して大手百貨店にその土地を販売し、る下準備をすべて整えたうえで、Mが建物の建設を請け負った。
所沢物流センターが完成したのが、こうして大手百貨店の1992年のことである繰り返しになるが、当時はまだ、マンションを建てさえすれば端から羽がはえたように売れ、楽に儲けを手にできる、そんな時代だった。なのになぜ、こんな難しい案件を手掛けたのだろうか。

この素朴な疑問を小林にぶつけたところ、「マンション用地などは、まだまだ値上がりを続けていた時代で、それを仕入れるだけの十分な資金がなかったということもありますが、ほかの人がやらないようなこともどそれ以上に、んどんやっていかないと、会社も自分も器が大きくならないと思っていたからです」という答えが返ってきた。

団体顧客の死亡などにも生命保険「俺はこれしかやらない、これしかできないと決めつけて、それまでやってきたことからはみ出すようなことはやらない人は、いつまで経っても、それまでの自分の枠の中のことしかできビジネスチャンスを逃してしまうし、自分の器も大きくならないし、ません。それでは、会社も発展しません」小林の言うとおりだ産業廃棄物が山積みされ、市からも厄介者扱いされていた土地を、実際、大手百貨店の物流センターとしてみごとに生き返らせた経験は、30年の歳月を経て、現在のMにとって市街化調整区域の再開発というビジネスにつながり、最大の経営基盤である大きな花を咲かせているのである

農耕型という新しい不動産ビジネスの開発へデベロッパー各社が開発競争にしのぎを削っていた。
当時の不動産市場では、ひたすら土地を造成し、そこに戸建住宅やマンションを建て、先を争うように売って、利益を得る、その繰り返しだった。
それでもバブル経済が崩壊する前までは、住宅を買いたいという人が多く、住宅価格も上がり続けていたから、住宅業界は労なくして拡大し続けることができた。バブル崩壊後の不況により、だが、様相は徐々に変わっていった。

「バブル崩壊後は、『よい時代』住宅業界にとってのはなくなりましたね」小林の口調もややトーンダウンする。と、かつては都市近郊で農業に従事していた人たちのなかにも、土地を手放し、一時的に大金を手にした人もあったが一概して身につかないものだ。そうしたお金は派手に使ってしまったあげく、気がつくとお金も土地もなくなってしまったという人がゴロゴロしていたのが、バブル崩壊後の実状だった。
小林がなによりも耐えがたかったのは、土地が消費財のように扱われていることだっ当時、この先もずっと「開発しては売りの繰り返しで、いつも手元にはなにもない」というビジネスを続けていかなければならないのか。もっと有意義で、それよりも、土地オーナーも不動産会社も安定的に収益を確保できるような土地の利用法はないだろうかそんなことを考えているときに、幼いころに何度も聞いた母の口癖が、耳の奥に甦ってきた。

「農家は、売らずにきちんとやっていれば、土地をちゃんとやっていけるんだよ」その言葉から、土地を所有し、それを売ってお金にするのではなく、土地を活かして使い、そこからお金を得ることはできないかと考えるようになった。
こうして、土地は、所有から活用へという新たな方向性が見えてきたのである確かな収益基盤、それも継続的な収益基盤をつくろうここで話が多少前後することを、お許しいただきたい。
さまざまな許認可業務に対する行政の理解が得られること。